責任をもってや

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責任をもってや

の悪魔的な詩をまとめた本の挿絵を担当する計画は放棄したが、そのことでわたしたちの友情にひびが入るようなことはなかった。若きエドワード・ダービイの奇妙な才能は人目を惹くほどに発揮され、十八歳をむかえた年、悪夢のような叙情詩がまとめられ、『アザトホースその他の恐怖』の表題のもとに刊行されたときには、一大センセーションを巻きおこした。エドワードは悪名高いボードレール風の詩人、ジャスティン・ジョブリイと文通していた。ジョブリイは『石碑の人びと』を発表し、ハンガリーの邪悪で忌《いま》わしい村を訪れた後、一九二六年に精神病院で悲鳴をあげながら死んだのである。
 しかしながら、エドワード・ダービイは猫かわいがりされて育ったため、独立心と処世の面では、その成長もはなはだそこなわれていた。健康状態は良くなっていたが、両親の過保護によって、何でも人に頼るという子供じみた態度を、身についた習性にしてしまい、ひとりで旅をすることもなければ、何かを自分ひとりで決めたり、ったりすることもなかった。実業界や専門職の分野において互角に人とわたりあえるはずのないことは、早くからわかっていたけれども、両親はこれを悲劇にさせないだけの十分な財産をもっていた。エドワードは成人しても、人を誤らせるような子供じみた外見を保っていた。髪はブロンド、目はブルー、子供さながらのいかにもさわやかな顔色をしていた。何度となく口髭を生やそうとしたが、よく見てようやく認められる程度にしか生えなかった。声は穏やかではっきりしており、およそ運動というものをしたことがないので、中年の二段腹とまではいかないまでも、愛くるしAmway傳銷い肥り方をしていた。上背があり、目鼻だちもととのっているので、ひとり閉じこもっては本ばかり読んでいるような内気さがなければ、けっこう伊達男として名をあげていたことだろう。
 両親は毎年夏になるとエドワードを外国に連れて行ったが、エドワードはヨーロッパ人の思考や表現のうわべの面に、すぐにとびついたものだった。ポオに似た才能はますますデカダン派のほうにむけられ、他の芸術的感性や熱望は不十分にしか目覚めなかった。当時わたしたちはよく激論をたたかわせた。わたしはハーヴァードを卒業し、ボストンの建築事務所で実務を学び、結婚をして、ようやくひとりだちをするためにアーカムにもどってきていた――父が健康のためにフロリダに移っていたので、わたしはソールトンストール街にある実家に住んでいた。エドワードは毎晩のように訪ねてきたものだが、おかげでわたしは、いつしかエドワードを家族の一員として考えるようにまでなった。エドワードは呼鈴やノッカーを独特のやり方でならすものだから、そのならし方は紛れもない信号になってしまい、わたしは夕食後いつも、耳に馴染んだ信号、勢いよく三回ならし、すこし間を置いてからもう二回ならすという信号はないかと、耳をすましたものだった。わたしのほうはそれほど頻繁にダービイの家には行かなかったが、行くときまって、着々と増加する蔵書に、世に知られない著作があるのを知って、うらやましく思ったものだ。
 両親が下宿住まいを許そうとしなかったので、エドワード・ダービイはアーカムのミスカトニック大学で単位を取得した。十六歳で入学し、英仏文学を専攻して、数学と科学以外はすべて優秀な成績をあげながら、全課程を三年で終了した。ほかの学生とはほとんどつきあわなかったが、前衛的な学生やボヘミアン連には羨望《せんぼう》の目をむけて、見かけだけの「いかした」話し方や意味のない冷笑的な態度をまねたり、いかがわしい振舞を思いきって身につけようと思ったりした。
 エドワードの目指したものは、当時も現在もミ實德スカトニック大学付属図書館が大いに名を高めている、世に隠れた魔術的伝承のほとんど熱狂的ともいえる愛好家になることだった。これまで常に、幻想と怪奇の表面的なものだけに思いをめぐらしていたエドワードは、子孫を導いたり迷わせたりするため途方もない大昔から残されている、実在の謎と神秘に深く探りをいれることになった。恐るべき『エイボンの書』、フォン・ユン

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