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城市的歷史

“城門城門幾丈高,三十六丈高,騎匹馬來買把刀……”老昆明人大概都記得這樣一首童謠吧。一座城市的歷史,並非只有雕樑畫棟,亭臺樓閣才能作為其標籤。每個城市都有自己的故事,每一個人都有自己的故事。生動有趣的童謠,就是老昆明人對這座城市的集體記憶。滇池畔的古渡漁燈,那下了雨還會泛光的金碧街的石板路都成了不可觸及的過去。 也許,只有細細端詳昆明的那些老地名,那一磚一瓦,一橋一河,才能感受到歲月的光華。
官渡:因滇池古渡口“官渡”而得名。宋大理國時,高氏於蝸洞置治所,建官渡古城、法定寺。至元十二年(1275年)鄯闡府改善州,領昆明、官渡二縣。後廢州,置中慶路;並官渡縣入昆明縣,為路治,於蝸洞置通往高峣之渡口;“官渡”由此得名。
武廟(武成小學):古代參加活動必須在此下馬而得名。
大(小)富春街:今美辰百貨兩旁,因明末清初從江南遷居昆明的人聚居此地,想念家鄉風景如畫的富春江而得名。
三轉彎:原連通小富春街(昆二中)和如安街的一條小巷,因有三個轉彎而得名。
三合營:今昆都附近,明代的軍屯營地。辛亥革命後將城郊的焦家營、趙家營、波轉灣三村的人合為一村,遷居至此得名。
文化巷:古為荒地,以前稱“蕁麻地”。上世紀50年代院校擴建,成為連接雲南大學、昆明師範學院(雲師大)、昆工師生往返的通道而得名。
瓦倉莊:昆都附近,以前是一個叫瓦村莊的村子,因明代在此建倉庫囤積軍糧而得名。
中和巷:原來昆明最長的一條巷,連接翠湖和武成路及景虹街,內又有吉星巷等三條支巷,石屏會館、昆明二幼均在巷內,以儒家思想“致中和”而得名。
長春路:現人民中路東段,新中國成立前被盧漢改為綏靖路,因以前長春觀在此而得名。
巡津街:清代在此設巡視汛情的崗哨,故名巡津堤,街也因此得名。
交三橋:因此地附近盤龍江上的橋系一名為焦三的人捐建,故名焦三橋,後改為交三橋。
文林街:因明清時貢院(雲南大學)在此,考生多經此地,“文人如林”而得名。
三市街:元代昆明最繁華的地方。因雲集豬市、馬市、羊市而得名。
眠山:曾叫“眠犬山”或狗山。因山形似正在睡覺的狗,得名“眠山”。
人民東(西)路:原是沿魚翅河的一條石板路,因通往迤西,稱為西關外大道,1958年填平河道,拓寬路面,取“人民事業興旺發達”之意,取名人民西路。
下馬巷:今人民中路省人才市場斜對面南起武成路的獨口巷,因清時官員到城隍廟(五一電影院)須下馬步行而得名。
關上:此地原有一村,村子所居之土崗名為石虎崗。因附近財神廟內有一石雕老虎,又為昆明通往滇東滇南繹道之門戶;設關鎮守,名為石虎關。因為關在土崗之上,村居關之旁邊,所以取名關上村,後來便發展成關上鎮。今天的“石虎關立交橋”可為佐證。
北京路:原為太和路,1966年貴昆鐵路通車,雲南從此有了出省鐵路,此路兩端都是火車站,取“邊疆連北京”之意而得名。
五裏多:並非如八公里、三公里一樣是代表距離。而是來自於蒙古語“斡耳朵”,意思是衙門和行營,因為元朝時梁王離宮在此,駐紮著蒙古軍隊而得名,後轉化為五裏多。
普吉:來自彝語,普為廟,吉為岔路口。此地是昆明通往沙朗和祿勸的路口,因舊時有廟在此而得名。
羊仙坡:學府路上虹山段的那個坡,來自彝語“雅西波”,意思是長滿楊梅和其他酸水果的地方。
岔街:今省體育館後門,明代為通往滇南和貴州的道路岔口。
狀元樓:今拓東路市博物館斜對面。清光緒時,石屏學子袁嘉穀獲得經濟特科一等一名,成為雲南數千年曆史上唯一一個狀元,總督魏午莊為其在原魁星閣掛匾,上書“大奎天下”,民間由此俗稱狀元樓。
復興村:昆明的老居民區之一,南起金碧路,緊臨玉帶河,在昆華醫院旁,因清末村子衰敗,民不聊生,辛亥革命後逐漸恢復,以復興之意得名。
威遠街:清朝時的藩臺衙門駐地,聲威遠揚,故名。
穿心鼓樓:元代在此建鼓樓用於軍事通訊,樓下有道路穿過可供行人通行,俗稱穿心鼓樓。
桃源街:此地歷史上曾有一片桃林,清光緒年間,昆明縣令謝幼侯府地在此,刻對聯於門“曾經滄海難為水,尋得桃源好避秦”,後來此地便叫桃源口,後打通道路,便稱桃源街。
正義路:雲南重九起義後,以伸張正義於天下之意,將大南門改名正義門,門北之路改稱正義路。
護國路:1915年,袁世凱稱帝,雲南發動護國首義,出師討袁,獲得成功。1919年在南屏街口建護國門和護國橋,又將其南北兩段路拓寬,取名護國路。
靖國路:北起順城巷(紅旗小學旁涮菜館小巷),南至金碧路。1917年張勳復辟,孫中山在廣州成立護法軍政府,唐繼堯在滇回應並通電全國,成立滇黔川靖國軍,任總司令,出師護法。後人紀念此舉,將此地的一橋命名為靖國橋,街以橋名。
青年路:這個地名來歷不凡此路是1954年昆明市的共青團員青年學生利用假期和週末開展義務勞動,拆除舊城牆,填平污水溝所建,故命名為青年路。
書林街:南連玉帶河,北至金碧路,明末清初,因街與元代建文廟接近,是讀書人住留處,另有四川人在此印書,因而得名。
甬道街:南起景星街,北至光華街,清代是雲貴總督衙門出入通道,名為甬道,故為街名。
端仕街:南起慶雲街,北接威遠街,清代因有衙門“斷事司”得名斷事司街,因多為官府眷宅,有為官端正之意改名端仕街。
吹簫巷:南起原長春路,北至桃園街,清初有竹子交易及竹工藝品,尤其洞簫較有名氣,故名“吹簫巷”。
營門口:南起金碧路,北至北後街,清初巷口正對清軍駐地“南校場”,故名。
南窯村:位於昆明站北,因位於舊城之南,元代又有趙、郝兩家在此燒制磚瓦盆罐,故名南窯村。
席子營:明代是生產草席的軍工營盤所在地,故名。
府甬道:南起西倉坡,北至文林街,明清時,是雲南府署大門前甬道,故名。
錢局街:南起翠湖南路,北至文林街,清代雲南開局制錢,名寶雲錢局,故名。
南通街:南起金碧路,北至順城街,清初稱羊馬市鋪,後改羊市街,1930年,取“由此可達南郊” 之意,故名。
二允巷:東起同仁街,西至正義路,清代有一大戶人家名陳二允在此居住,故名。
揚儉巷:東起青雲街,西至翠湖東路,因巷口正對肥皂(老昆明習慣稱“洋堿”)公司而得名,1980年改名揚儉巷。
光宗巷:南起文林街,清末巷內住一“端公”(民間職業者),故稱端公巷,後改名光宗巷。
錢局巷:東起錢局街,西至石碑坊巷,原名大井巷。清代在此建敬節堂,收養陣亡將士守節遺孀,改名敬節堂巷,1983年更名為錢局巷。
洋浦:這個地名來歷較複雜。明朝洪武十四年(1381年),明軍攻打雲南。元軍大部隊在曲靖白石江大敗後,昆明城岌岌可危,幾位老兄給據守昆明的元梁王呈上一計:戰國時候,齊國和燕國打仗,齊國組織了千餘頭牛,牛角上綁刀,牛尾上束上抹布灌上油。點燃牛尾,牛猛衝燕軍,齊軍乘勢殺出獲得勝利。昆明不妨也來上一次?梁王大喜,依此照辦。但昆明沒有那麼多牛,於是用羊代替。元軍就在城外山坡上搞了個“火羊陣”。可惜這些羊沒有遵守“羊戰法”,直沖坡下的敵陣,反而橫衝直撞,把元軍的陣式沖亂。明軍乘機進攻,打了勝仗還大吃了一頓烤羊肉;梁王自盡。這個山坡由此得名“羊坡頭”。後系訛傳,成了“羊甫頭”。繼而有了“羊甫”這才是最原始的名字。
利昆巷:在五華山西面。因1910年官商合辦的耀龍電燈公司成立於今利昆巷內,該公司興建的石龍壩水電站是我國最早的水力發電站,辦電是送光明之舉,有利於昆明人民,故名利昆巷。
鐵局巷:在翠湖之南。因清初在此設煉鐵局,開爐煉鐵,成巷後以此取名。
銀珠巷:西起正義路的獨口巷。清道光時以巷內有經營繪畫顏料“石艮珠”得名石艮珠巷,因石艮二字生僻,演變為銀珠巷。
西倉坡:在翠湖之西。東起翠湖北路,西至市糧食局第二直屬庫,北與府甬道相通,長108米。因清道光八年(1828年)在巷內建有太平倉,得名太平巷;以民間習稱大西倉,且巷居西高東低的坡地,故清末民間稱之為西倉坡。
鹽店巷:西起正義路,東至同仁街,長95米。以清時巷中有鹽店、鹽倉得名。
先知巷:西起正義路,東至同仁街,長95米。清時曾名燕支巷、胭脂巷,後者以巷內多經營胭脂花粉的店鋪得名,以音近和先知先覺之意改名先知巷。
定花巷:在翠湖之北。南起青雲街的獨口巷,長26米。以1920年前後巷內有王姓人家善於用藍靛染布,時人稱之為王靛花,得名靛花巷,1979年標巷名時誤為定花巷。
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物のことだ

  とも、決してありえないことではない。伝承が強調しているのは、魔女の動きを食いとめるうえで物質的な障害が役にたたないということなのだから、ほうきにまたがって夜空を飛ぶという昔話の裏にどんな事実が秘められているか、それをはっきりいえる者がいるだろうか。
 現代の研究家が数学の研究だけでおなじ力を得られるかどうかは、まだどうともいえることではない。ギルマンはさらにつけ加えて、成功すれば考えもつかない危険な状況におちいってしまうかもしれないといった。隣接しているとはいえ、普通は接近することもできない次元を支配する状態のことなど、誰が予想できるだろう。一方、興味深い可能性は途轍《とてつ》もないものだ。空間の特定地帯では時間は存在しえないのだから、そういう地帯に入りこんで留まることで、現在の生命および年齢をかぎりなく保ち、本来の世界や類似する世界を訪れるあいだにいささかそこなわれることはあっても、肉体の新陳代謝や劣化をこうむることはないだろう。たとえば時間のない次元に入りこみ、以前と変わらぬ若さのまま、地球の歴史の遙かな時代にあらわれることもできるだろう。
 かつてこれをおこないえた者がいるかどうかは、いかなる根拠があろうと推測もままならないことだ。古い伝説は曖昧《あいまい》模糊としているし、有史時代になってから禁断の深淵を乗り越えようとする試みのすべては、外界からの存在や使者との奇怪かつ恐ろしい結託によって、こみいったものになっているように思える。秘められた恐るべき力を表したり伝えたりする、太古からの存在がいる――魔女信仰における〈暗黒の男〉や『ネクロノミコン』におけるナイアルラトホテップがそれだ。それより程度の落ちる使者もしくは媒介者という不可解な問題もある――伝説が魔女の使い魔として表す動物もどきと、奇妙な雑種生。ギルマンとエルウッドがそれ以上議論もできないほど眠くなり、それぞれ横になったとき、ジョー・マズレヴイッチがほろ酔い機嫌でふらつきながら家にもどってきた音が聞こえ、二人はその哀れな祈りの絶望的な荒あらしさに震えあがってしまった。
 その夜ギルマンはまた菫色の光を目にした。夢のなかで間仕切りをひっかいたりかじったりする音を聞き、誰かがぎこちなく掛け金をまさぐっているように思った。やがて老婆と毛むくじゃらの生物が、カーペットの敷かれた床の上を、自分のほうに近づいてくるのを見た。老婆の顔は人間ばなれした狂喜に輝き、黄色の歯をもつ小さな凶まがしい生物は、部屋のむこうがわの別の寝椅子でぐっすり眠っているエルウッドを差し示しながら、嘲笑《あざわら》うような声をだした。ギルマンは恐怖のあまりどうすることもできず、声をあげることもできなかった。以前のように、悍《おぞ》ましい老婆はギルマンの肩をつかむと、ベッドから虚空にひきずりこんだ。またしても怒号する果しない薄明の深淵がかすめさったが、次の瞬間、ギルマンは古びた家いえの朽ちゆく壁が周囲にそびえたつ、暗く、泥濘《ぬかる》んだ、悪臭はなつ小路に入りこんだように思った。
 前方には、別の夢にあらわれた天井のとがった部屋で見た、ローブをまとう暗黒の男がいる一方、さほど遠くないところでは、老婆が尊大な態度で顔をしかめ、手招きしていた。ブラウン・ジェンキンは、深い泥にほとんど隠れている暗黒の男の踵《かかと》のあたりで、じゃれつくように体をこすっていた。右手には黒ぐろとした戸口があって、暗黒の男が無言でそこを差し示した。この戸口のなかに、顔をしかめる老婆がギルマンのパジャマの袖《そで》をひっぱって入りはじめた。悪臭の漂う、不気味にきしむ階段があって、老婆はその階段にかすかな菫色の光を放っているようだった。階段を登りつめたところにはドアがあった。老

者ともなってい

あげようといった。ムニョス博士自身は、常に部屋の温度を低く保っておくことを含む、きわめて厳格な養生《ようじょう》を必要とする厄介な病気にかかっていた。室温が著しくあがり、それが長くつづくと、致命的なことになるらしく、そのためNeo skin lab 呃錢部屋の温度は、アンモニア冷却器によって、常に華氏五五ないし五六度[#摂氏12.77〜13.33℃]に保たれていた。わたしが自室でよく耳にするのは、ガソリン・エンジンで作動する冷房装置のポンプの音だった。
 驚くほどの短時間で発作のおさまったわたしは、底冷えのする部屋を離れるとき、この才能豊かな世捨て人の弟子とも帰依《きえ》た。その後、わたしは外套を着て頻繁《ひんぱん》に訪れ、神秘的な研究や、背筋が凍りそうなその結果についての話に耳を傾けたり、書棚にならぶ歳月を閲《けみ》した古書や稀覯《きこう》書を手にとっては、ぞくっと身を震わせたりした。つけ加えるなら、博士の巧みな手当のおかげで、長患《ながわずら》いの心臓病もほぼ完治した。博士は中世の魔術をも蔑視していないらしく、魔術における神秘的な処方には、他ではめったに得られない精神的な刺激物が含まれていて、それが神経組織そのものに、脈搏がなくなった後も著しい効果をおよぼすと信じていた。博士の現在の変調がはじまったのは十八年まえ、大病を患ったときだが、その博士を看病し、また初期の実験をともにおこなった、ヴァレンシアの老トレス博士の話には、わたしも感動させられた。この高徳のPretty renew呃人老開業医は同僚を救うとすぐに、それまで果敢に闘いをいどみつづけていた忌わしい敵に屈服してしまったという。おそらく心身の過労があまりにも大きすぎたのだろう。ムニョス博士も詳しくは話してくれなかったが、それとなくほのめかしたところによると、この治療法というのは、かなり年輩の保守的な医者なら強く抵抗する道具立てや処置を必要とする、異常きわまりないものであるらしい。
 何週間かがすぎていき、わたしは遺憾《いかん》ながら、エレーロ夫人のほのめかしていたように、新しい友人がゆっくりとではあるが、紛れもなく肉体に衰えをきたしていることを認めざるをえなくなった。青黒い顔色がますますひどくなり、声は以前にもましてうつろで不明瞭になり、筋肉の動きはぎくしゃくして、精神も意志も快活さや積極さを失ってきた。ムニョス博士自身はこの悲しむべき変化にも気づいていないらしかったが、すこしずつ表情と会話に薄気味悪い皮肉がこもりはじめ、それがはじめてあったときに感じた、あのいうにいわれぬ嫌悪感を甦らせていた。
 博士は驚くほど気まぐれになり、異国の香辛料やエジプトの香《こう》を手に入れはじめたので、部屋が王者の谷間にあるファラオの地下埋葬所Neo skin lab 退款を思わせるような臭につつまれるまでになった。同時に冷房の要求を増し、わたしの助けをかりて、アンモニアの配管を拡大したり、冷房装置の能力やポンプを改良したりして、室温を華氏四〇度から三四度[#摂氏4.44〜1.11℃]、ついには二八度[#摂氏マイナス2.22℃]にまでさげてしまった。もちろん水が凍った

責任をもってや

の悪魔的な詩をまとめた本の挿絵を担当する計画は放棄したが、そのことでわたしたちの友情にひびが入るようなことはなかった。若きエドワード・ダービイの奇妙な才能は人目を惹くほどに発揮され、十八歳をむかえた年、悪夢のような叙情詩がまとめられ、『アザトホースその他の恐怖』の表題のもとに刊行されたときには、一大センセーショyou beauty 陷阱ンを巻きおこした。エドワードは悪名高いボードレール風の詩人、ジャスティン・ジョブリイと文通していた。ジョブリイは『石碑の人びと』を発表し、ハンガリーの邪悪で忌《いま》わしい村を訪れた後、一九二六年に精神病院で悲鳴をあげながら死んだのである。
 しかしながら、エドワード・ダービイは猫かわいがりされて育ったため、独立心と処世の面では、その成長もはなはだそこなわれていた。健康状態は良くなっていたが、両親の過保護によって、何でも人に頼るという子供じみた態度を、身についた習性にしてしまい、ひとりで旅をすることもなければ、何かを自分ひとりで決めたり、ったりすることもなかった。実業界や専門職の分野において互角に人とわたりあえるはずのないことは、早くからわかっていたけれども、両親はこれを悲劇にさせないだけの十分な財産をもっていた。エドワードは成人しても、人を誤らせるような子供じみた外見を保っていた。髪はブロンド、目はブルー、子供さながらのいかにもさわやかな顔色をしていた。何度となく口髭を生やそうとしたが、よく見てようやく認められる程度にしか生えなかった。声は穏やかではっきりしており、およそ運動というものをしたことがないので、中年の二段腹とまではいかないまでも、愛くるしAmway傳銷い肥り方をしていた。上背があり、目鼻だちもととのっているので、ひとり閉じこもっては本ばかり読んでいるような内気さがなければ、けっこう伊達男として名をあげていたことだろう。
 両親は毎年夏になるとエドワードを外国に連れて行ったが、エドワードはヨーロッパ人の思考や表現のうわべの面に、すぐにとびついたものだった。ポオに似た才能はますますデカダン派のほうにむけられ、他の芸術的感性や熱望は不十分にしか目覚めなかった。当時わたしたちはよく激論をたたかわせた。わたしはハーヴァードを卒業し、ボストンの建築事務所で実務を学び、結婚をして、ようやくひとりだちをするためにアーカムにもどってきていた――父が健康のためにフロリダに移っていたので、わたしはソールトンストール街にある実家に住んでいた。エドワードは毎晩のように訪ねてきたものだが、おかげでわたしは、いつしかエドワードを家族の一員として考えるようにまでなった。エドワードは呼鈴やノッカーを独特のやり方でならすものだから、そのならし方は紛れもない信号になってしまい、わたしは夕食後いつも、耳に馴染んだ信号、勢いよく三回ならし、すこし間を置いてからもう二回ならすという信号はないかと、耳をすましたものだった。わたしのほうはそれほど頻繁にダービイの家には行かなかったが、行くときまって、着々と増加する蔵書に、世に知られない著作があるのを知って、うらやましく思ったものだ。
 両親が下宿住まいを許そうとしなかったので、エドワード・ダービイはアーカムのミスカトニック大学で単位を取得した。十六歳で入学し、英仏文学を専攻して、数学と科学以外はすべて優秀な成績をあげながら、全課程を三年で終了した。ほかの学生とはほとんどつきあわなかったが、前衛的な学生やボヘミアン連には羨望《せんぼう》の目をむけて、見かけだけの「いかした」話し方や意味のない冷笑的な態度をまねたり、いかがわしい振舞を思いきって身につけようと思ったりした。
 エドワードの目指したものは、当時も現在もミ實德スカトニック大学付属図書館が大いに名を高めている、世に隠れた魔術的伝承のほとんど熱狂的ともいえる愛好家になることだった。これまで常に、幻想と怪奇の表面的なものだけに思いをめぐらしていたエドワードは、子孫を導いたり迷わせたりするため途方もない大昔から残されている、実在の謎と神秘に深く探りをいれることになった。恐るべき『エイボンの書』、フォン・ユン

に探る片手

に登らずにはおくものかと覚悟を決めるにいたったのであった。
 余はじっとりした薄闇のなか、年|旧《ふ》り磨耗した階段を、とぎれる箇所まで登りつめると、それ以後は、上方に通じるささやかな足がかりにあやうくすがりつきながら進んだ。階《きざはし》の一つとてなき岩の円筒は、総毛だつほど恐ろしきものであった。黒ぐろとして、見事に荒れはて、わびしさきわまり、闖入《ちんにゅう》におびえた蝙蝠の音なしの翼にて舞うさまは、その不吉さいいようもない。しかしながら、登攀《とうはん》の遅々として進まぬことが、さらに血も凍るばかりに恐ろしかった。いかに登れど、闇はいっかな薄らぐことなく、幽鬼の巣食う古びた土地に感じるがごとき、新たな悪寒を余はひしひしと身におぼえていた。何がゆえに明るみにとどかぬと怪しみながら、身を震わしていたが、まこと勇気さえあれば、下に目をむけたことであろう。忽然として夜が訪れたのではないかと思いつつ、外がのぞめる窓を求め、もしあれば、おのれの達した高さをうかがわんとて、あいている片手で探りをいれたが、いかさま徒《あだ》な努力ではあった。
 何も目に見えぬまま、なか窪みで切り立つ絶壁を、恐れおののきながら果しなく這いあがりつづけた後、余は突如としてculturelle 香港頭が固いものにふれるのを感じとり、屋根あるいは少なくとも階らしきものに達したことを知った。あいている片手を闇のなかにあげ、行手をはばむものを探ってみれば、びくとも動かぬ石ではないか。こうして余は、ありとある支えにすがりつきながら、ぬるぬるした壁の周囲を命がけでめぐりはじめた。ついが押せば動く箇所のあることを告げるや、余はふたたび登りはじめ、空恐ろしい登攀で両の手がふさがれているゆえ、平板とも扉ともつかぬものを頭で押し開けた。一条の光もさしいってはいなかったが、手をさらに上へあげたとき、余の登攀がさしあたり完了したことがわかった。何となれば、その平板こそ、塔の下部より周囲の広い平らな石床、どうやら広びろとした望台のようなものの床に通じる、その開口部の落とし戸に相違なかったからである。余は苦労して落とし戸の口に這いずりこむと、どっしりした戸が元にもどらぬようあれこれためしてみたが、しょせんかいなき試みではあった。疲労困慰の体《てい》で石の床に横たわった余は、平板が閉じて生じる不気味な残響を耳にしながら、要あるときに開けられればよいがと願っていた。
 いまや呪わしい森の枝という枝を遙かにこえる、途方もない高みにいるのだ、余はそう信じこみながら、床からようやく身をおこすと、空、そして書物で読んだ月と星がはじめて目にできるやもしれぬ、窓を求めて手探りしたが、reenex 效果手をのばすたびに、希望は微塵にくだかれた。見いだしたものは、心かき乱される大きさの、小癩《こしゃく》な長方形の箱を載せた、巨大な大理石の棚また棚ばかり。余は熟考に熟考を重ね、眼下の城から永劫の歳月たちきられているこの高みの房室には、いかな古昔《こせき》の深秘《じんぴ》が潜んでいるのかといぶかった。と、そのとき、余の両手は思いがけず戸口に行きあたった。戸口には、妙な彫刻がほどこされ、表面なめらかならぬ石の杭門が配されている。扉には錠がおりていたが、余は渾身の力をふりしぼり、なべての障害を圧して、扉を内側へとひき開いた。扉が開くや、絶えて知らざる至純の歓喜が余に訪れた。凝った飾りのある鉄格子をとおして、戸口から昇りはじめる短い石の階段に穏やかにさしいっているのが、夢、そして記憶とも呼べぬおぼめく幻影のなかでのみあおぎ見た、耿々《こうこう》と照り輝く満月の光だったからには。
 余は城の最上点をきわめたのだと思い、戸口を抜けて階段を駆け登りはじめたが、数段登ったところでにわかに月が雲に隠されたことで實德金融、足がつまずき、あとは闇のなかを手探り足探りでそろそろ進みつづけた。鉄格子にようやくたどりついたときも、まだ真闇《まやみ》

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